1925年のアラスカで、遠く1,000kmも離れた町へと血清を届けるために、犬ぞりチームがリレーを行ない、命がけで走り抜いた犬たちがいました。バルトはその犬ぞりチームのリーダー犬でした。今回はバルト達の功績について見てみましょう。

スポンサーリンク

犬ぞりで1,000kmを走り抜き、多くの人を救ったアメリカの英雄犬「バルト」

1925年、アラスカの北部の都市ノームで、「ジフテリア」という病気が流行しました。ジフテリアは、血清によって治療を行いますが、当時のノームでは十分な血清の用意が出来なかったため、最悪の場合、一万人以上を超えるノーム市民を、感染性と致死率の高いジフテリアの危険に晒すことになります。

そのため、血清の緊急輸送が必要になったのですが、血清が用意できる街は遠く、1085kmにまで及びます。そこで活躍したのが、アメリカのアニメ映画にもなった「バルト(Balto)」。バルトはアメリカの犬ぞりチームのリーダー犬で、病原菌ジフテリアから多くの人々を救うこととなった名犬(実際にはチームではありますが)として知られます。

病原菌「ジフテリア」とは?

「ジフテリア」という病気。一度は耳にしたこともあるのではないでしょうか。ジフテリアは1883年に発見された飛沫感染する感染症で、喉の痛みや筋力の低下、激しい嘔吐などが引き起こされる病気で、神経麻痺や喉が腫れ上がり、場合によっては死に至る病原菌。感染後の多くが1〜2日で症状が見られ始め、40℃近い発熱もみられる恐ろしい病気です。

ジフテリアは馬由来の血清や抗生物質などによって治療することができますが、今もなお、世界各地で発症が見られる病気で、2013年には世界で3,300人もの人が犠牲になっているのだそうです。

ノーム市を襲ったジフテリアの恐怖

そんな恐ろしいジフテリアですが、1925年のアラスカ「ノーム市(Nome)」でジフテリアが発生、さらには発見が遅れたために感染が拡大しかねない状況になってしまったのです。というのも、この当時のノーム市にはジフテリアに対する十分な血清がなく、場合によってはノーム市で生活する多くの市民が感染により、街全体の人が命を落としてしまうような危険な状況でした。

またこの時(1月27日〜2月1日)、アラスカでは激しいブリザードが吹き荒れていたために、ノーム市から近く、ジフテリアの血清が揃っていた「アンカレッジ(Anchorage;ノーム市から飛行機で約1時間30分程の場所)」から血清を運ぶことができない状況だったのです。この豪雪の中、残される最速の手段は「犬ぞり」による血清の輸送でした。とは言え、血清を運ぼうとしていたアンカレッジからは、陸上の直線距離で1,085km。さらには標高1,500mの山岳地帯も超えなければならないというルートでした。

次なる候補で血清を輸送するための犬ぞり隊が待機していた場所は、ノーム市から約1,085km離れたニナナ(Nenana)、さらには、この長距離に加えて300,000ユニットの血清を積んでの輸送という過酷なものでした。また、ブリザードが起きていた為に氷点下マイナス50℃という、まさに自殺行為な温度と距離だったのです。

スポンサードリンク

犬ぞり隊の輸送劇とリーダー犬「トーゴ」の存在

1925年1月27日、ノーム市にジフテリアの血清を輸送するため、1チーム16頭、総勢200頭、20名のマッシャー(犬ぞり操縦者)が集結、全20チームの犬ぞりチームでリレーを行ないながら、ノーム市を目指す事となりました。そして、200頭の犬たちはリレーで血清を繋ぎ、2月2日の正午、わずか5日半という速さで血清を輸送、ノーム市の危機を救う事となったのです。

この輸送劇では多くの犬が活躍し、最後のフィニッシュを飾ったチームのリーダー犬が「バルト」でしたが、中でも一番長い距離を走り抜いたのが、リーダー犬の「トーゴ(Togo)」でした。

トーゴは3日間を通じて274kmという距離を走破し、初日には134kmもの距離を走ったそうです。さらに、134kmを走ったにも関わらず6時間の仮眠を取った後、すぐに出発するという非常に過酷なものでした。夜間の気温はマイナス40℃にもなり、風速も相当強かったために、体感温度はマイナス65℃にも及ぶものだったそうです。

こうした過酷な状況の中、トーゴを始めとした多くの犬達が血清を運び、最終的には6頭の犬が命を落とすという、まさに命がけのリレーとなったのでした。しかし、この偉大なリレーによって救われた人は、数千人という数だったのです。

英雄バルトと、その後

トーゴ達からリレーを繋ぎ、最後の区間を走り抜いた犬ぞりチームのリーダー犬が「バルト」でした。バルトのチームは脚光を浴び、リーダー犬であるバルトはノーム市を救った英雄犬として称えられることとなったのです。今もなおこの偉業は語り継がれ、ニューヨークのセントラルパークにバルトの銅像が建てられています。

しかし、こんなふうに一躍人気者になったバルトたちハスキー犬は、その後アメリカへ渡り、巡回サーカスに引き取られ、見世物となり、ひどい扱いを受けていたようです。

それをたまたまロサンゼルスの余興で見かけた実業家のジョージ・キンブルは、全米に寄付を呼びかけ、バルトとその他6頭を、彼の出身地オハイオ州クリーブランド動物園へ連れて行き、そこで余生を送ったと言われています。死後、バルトの体は剥製にされ、クリーブランド自然史博物館に展示されています。

イディタロッド・トレイル犬ぞりレース

トーゴやバルト達、犬ぞりチームの活躍は当時「Great Race of Mercy(偉大な慈悲のレース)」と呼ばれ、多くの脚光を浴びました。時代柄、前項にも触れたとおり見世物になるといった、現代となっては残念な扱われ方もしていましたが、バルト達の偉業は後世にも語り継がれ、1973年にはこのリレーを称えた「イディタロッド・トレイル犬ぞりレース」というレースが開催されました。

イディタロッド・トレイル犬ぞりレースは、1,600kmにも及ぶ距離を8日〜15日間をかけて走り抜くというもの。そして、ゴールはもちろんノーム市です。このレースは今もなお、毎年開催されており、トーゴやバルト達の偉業を称えているのです。

スポンサーリンク